嗅覚について

私はもともと、かなり鋭敏な嗅覚をもって生まれついたらしい。しかし、その鋭敏さは諸神経の過敏さと無関係でなかったのであろう、常に鼻炎に悩まされていた。おまけにその対処もよろしくなかったため、鼻の粘膜は物心付いた時点で既にずたずたのぼろぼろになっていた。そして、どうにも避けられないにおいの洪水から自分の精神を保護するため、いつしか私は無意識のうちに嗅覚を封印していた。幼い頃の微かな記憶に、確か私はべらぼうに鼻がよかったはずじゃないのか、というものが含まれているが、それすらも最早模糊として頼りない。そういえば小さい頃は特急電車やタクシーの車内のにおいが全く駄目で、家族旅行のときなどはひとりで迷惑がられていたような気がしなくもない。私は、家族の中で生きるため、そうした記憶とともに嗅覚もどこかに閉じ込めたようだ。
だから私は、においにかかるよい思い出がほとんど無い。
それが最近になり、いろんなもののにおいが自然に感じられるようになってきていることに気付いた。そういえば数年前から突然、スダジイの花粉のにおいが平気になっていた。相変わらず衛生的とは程遠い生活をしているので日常的に不快なにおいとは隣り合わせだし、その不快なにおいが不快でなくなるわけでもないのだが、心地よいと感じられる香りはちゃんと認識できるようになった感覚もある。
これはしかし、果たしてどういうことなのか。
ひょっとすると、単に嗅覚が衰えたため、環境臭が脳にとって耐えうるレベルまで落ちた、ということなのかもしれない。だとすれば、私の生活にとって数十年間、なんらの役に立たなかったばかりか、単なる障害でしかなかった無駄な高感度センサが、劣化することによって初めて私に利する可能性を持ってくるというのは、なんとも皮肉な話である。