陰徳と呼ぶべきものでもなし

私は掃除と整理整頓が嫌いで、なおかつ大の苦手だ。だから、掃除のときなどはなんとなく「やってるふり」をしていることが多い、というのが正直なところである。勿論、一生懸命やってはいる。だが、正味な話、限られた時間でほどよい掃除、というのが、できないし、そんなものには納得がいかない。じゃあ充分な時間をかけてとことん念入りにやればいいかというと、それはまた本末転倒な話である。下手くそが無計画にいくら時間を割いたところで、そんなものはたかが知れている。最大効率を考えれば、掃除なんてプロにやってもらうのがいいに決まっている。
だから、掃除というのは、パフォーマンスである、と割り切っている。勿論それが大間違いなこともわかった上で、掃除をお祭りと同じようなものと位置付けている。
それでいいわけもないので、掃除以外のところでなんとか帳尻を合わせる。それが認められるかどうかが問題なのではなく、これは自分の問題だ。心根の問題だ。その点では、それはまさしく隠徳といえよう。しかし、心の底からどうでもいい話だ。それが証拠に、ひとり残らず誰もが、誰かがやるだろう、と思っている。やっているのは貧乏くじを引いた人だと思っている。そう思っている人を私は心の片隅で軽蔑している。そういう気持ちがわずかでもある以上、それは「徳を積む」作業にはなりえない。
そういう諸々の鬱積を前向きに晴らすために、私はその作業を続ける。徳とかそういうのはどうでもいい。これで、手を抜いている自覚のある掃除について、チャラになるとも思っていない。