まあ、いろいろ言いつつも現役の連中が羨ましくてしょうがない

当時の合唱はピアノの素養がないと音取りすらできなかったわけで、勿論音取りできる程度には(初見のスキルはなくてもいい、無い場合は時間をかけてコツコツ努力すればよい)譜面も読めなくてはどうしようもないし、1本指でいいから鍵盤は叩くべきではあるのだけれども、ボカロでもってコーラスが再現できるのであれば、全体の和音の中での自パートの立ち位置なんかを押さえながら音取りができることになる。なにより、予習がぐっと手軽になる。
今でこそ演奏録音物の取得はそこそこできる(Nコン課題曲ならば全部ネットで聴けたりする、など)のだが、「当時」音源の入手は、それはもう大変だったし、まあ言うてしまえば事実上不可能だったし。ナントカ協会の事務所みたいなところに行ってもほとんど手に入らなかった。


ただ、私が現役の頃は敢えてそういうの(≒ 電子音的な何かを駆使しての練習素材作成、ならびに、既存の演奏を聴いての練習)をしなかったし、どちらかというと止められていたフシがあった。そういうのは、やるな、と。 というのも、たとえば既存の演奏録音を聴いて覚えるとどうしてもその演奏の表現イメージが耳に頭に刷り込まれてしまう。これは、なかなかまずい。簡単でいいんだけれども、まずい。たとえばテンポひとつにしても、各人が先入観をもって入ってしまうと、指揮者がどう制御してもそっちに流れる。二重母音のふたつめの母音の位置などは楽団によって解釈の伝統があったりするわけだが、これも違うのを聴いてしまうとどうしてもそっちに引っ張られて、歌に迷いが生じる。そのうち指揮者も迷ったりなんかした日には、最早、曲として成り立たなくなる(楽曲崩壊?)。
ボカロ声みたいなふにゃふにゃした、音程的に不正確な音を聞き慣れるのも、非常によくない。これは本当によくない。ボカロに限ったことではない、ビブラートの掛かった音色を使っているような電子楽器は練習に使っちゃいかん、音が不正確だから、みたいな空気まであった。一応ちゃんとした楽器メーカーが出してる品物だったりするんだけどな。でも駄目だと。確かに、不正確な音に慣れる、というか、それを聴いても平気になるのは、演奏家としては自殺行為に近い、特に「ちから」のない中高生ぐらいでは影響大、というのは、判らなくもない*1
でも、とりあえず自分たちがこれから歌う歌がどういうハーモニー構成を持っているのかを、繰り返し聴いて把握するためには、手軽に再生できる素材があると素晴らしい。当然、伴奏譜を MIDI などでカラオケ化して持っていれば携帯オーディオでいつでも聴けるわけだし、簡単なスクリプトで発声練習用伴奏を作れば、いつでもどこでも、野外でも、発声練習ができる。「いまのひと」たちは当然のようにやってるのだろうな。これにボカロが、自然な形で加わっていくことになると。そして、ボカロがもう少し進化し、洗練されれば、パート練習で他パートを担当してもらって擬似アンサンブルレッスンなんかもできるかもしれない。人数不足の楽団とか、練習の参加率がキープしづらい社会人コーラスなどでは朗報となるだろう。
全てにはなりえないけれども、できることの巾はおおいに広がるのだ。余計なところに時間を取られず、「その先の表現領域へ」踏み込むことだってできるかもしれないのだ。
羨ましいなぁ。


だからといって、今更絡もうとは全く思わないのだけど。私の楽器としてのピークは中学で概ね終了していた。あとの数年は「余韻」*2。酷いよね。長い長い、10年近い変声期のそのさなかにピークが来て、そしてピーク終了とか。

*1:ただ、そういうことを言っている諸先輩方の持っている音感がどの程度のものだったかというと、まあ、その実、たいしたこともなかった。

*2:余韻の方が綺麗に聞こえるとかそういうのはよくある話でございます。