「和風シーチキンマヨおにぎり」の否定多重構造

「わふー」ではないので、そこのへん要注意。


おにぎりである時点で既に紛うことなき「和」である。「和風」とつけることによっておにぎりという(自己の)拠って立つ存在性を否定している。
さらに、自己否定しているそばから「マヨ」が「和風」をものすごい勢いで全否定している。存立を否定している語そのものが、コンマ数秒後に否定し返されているのだ。
さらに、冷静によく見てみると「和風」がどこにかかるのか全くわからない。前述のとおり「和風」→「おにぎり」であるはずがない。「和風」→「マヨ」は構造的にもっとありえない。「和風」→「シーチキン」? これが最もありそうな線だ。だが、ならば、「和風」でない「シーチキン」は「何風」なのだ? そう考えてゆくと「和風シーチキン」というものの意味が全くわからなくなってくる。「和風」の反対だから「洋風」? まさか。「アジア風」? んなわけないだろう。「太平洋風」? 適当に何か言えばいいってモノでもないだろうし、その「太平洋」に相反する存在が「和」ということはありえない。 百歩譲って無印「シーチキン」が仮に「無国籍風」であるとしよう。するとどうだ。「無国籍風」ならば「和風」要素を少々加えたぐらいで「無国籍」が「無国籍」でなくなるわけがないのだ。ますますカオスになるだけのはずだ。
要するに「和風シーチキンマヨ」とは、定義存在の非常にあやふやで希薄な、あやうい存在なのだと言える。実体は確固としてある。しかし、その存在はゆらぎのむこうかたにあるのだ。そこにあるのに、そこにはない、まこと不可思議なものを食べているということになる。
…などとどうでもいいことを考え、こねくり回しながら、和風シーチキンマヨおにぎりを喰った。喰ってるとき脳は割と暇だから、どうでもいいことが湧いては消え、湧いては消えてゆく。勿論、そのほとんど全ては文字通りどうでもいいことである。