その縛りを改めて再確認する

別に自分の為というわけでもない、かといって他人の為という程でもない、そんなような、ちょっとしたフレーズを吐き出す場として Twitter は適しているように思う。しかし、人の感情レベル、思索レベルというのは一定ではない。これをプレーンなフォーマットの場に均質化して出すというのは、ある意味危険なことだ。
というのは。
普通に日常生活をしていれば、カッとなることだって普通にいくらでもある。どう考えても許せないことのひとつやふたつぐらい、1日に数回…いや、1週間に数回…月に数回…まあ頻度はその人の個性によりけりだけど、起こる。それをその場の高揚そのままにテキストに起こしてしまうと、その高揚状態が固定されてしまう。
また、人間は起床直後にはぼうっとしているものだし(そうでない人は遅かれ早かれ脳の血管が切れると思う)、就寝直前にも脳の活動は低迷する。飲酒すれば支離滅裂になるだろうし、飲酒しなくても「青空タイム」を迎える人もいる。そういう瞬間の感情をテキストに起こすと、これも勿論人によりけりではあるが、場合によっては相当におかしなものになる。
…敢えて言うまでもないかもしれないが、それが Twitter のおもしろいところのひとつであるということはできるし、むしろそれなくして Twitter のどこがおもしろいのか、という言い方もできるぐらいであろう。しかし、「揺れてこそ、ぶれてこそ、人」なんていうほどに人を愛せないのが、これまた人である。「ぶれ」(振れ)の範囲が大きければ大きいほどその人が面白い可能性も高い、でも、「面白い」ものを見たい聞きたい読みたい人にとっては、その「ぶれ」の反対側のほうを目にすること(せざるを得ないこと)は、害こそあれ利益にはならない。
他に誰も聞いていない酒の席でなら許されるインモラルな発言だって、同じ感覚でもってネットにほいほい書いたら、まずい。(人は自分の現在いる空間と状況とに感情支配されるから、「自分が今飲み屋におり、時間は夜であり、自分も周りも皆酔っ払っている」という事実に油断しがちである。) ネットには壁がないだけではない、実質的に時間も空間も無いのである。「真夜中だから許される話題」を tweet して、それを全員が真夜中以外の時間帯に見ないでくれる可能性など皆無。怪我の話。悪臭の話。病気の話。事故の話。読むタイミングによっては極上のテロ行為になりうる。
どんなに敬愛する人物だって罵倒したくなることの 1度や 2度はあるだろうし、欠点がばかりどうしようもなく鼻につく瞬間もあるだろう。むしろそれでこそ人間だ。私が相対しているのは、神ではない。でもそれを本人が見える場所に書いて残すとなると、話は別だ。
読む側も書く側も「発言単位」で情報を区分することができない、基本「ユーザー単位」でしかコントロールできない、というのが、Twitter のちょっとしたメリットであり、最悪の欠点である。その人の中の「ぶれ」をシステムで解決できない。できないけど、できてしまうとそれは TwitterTwitter でなくなるとも言える、構造上の問題。
長く使いたいなら、「書く側」で工夫を凝らさねばならない。「内容に応じて複数のアカウントを使い分ける」のがその方策の基本技と言ってもいいかもしれない。人間、たとえば「仕事の自分」と「私的な自分」は切り替えて運用している。「ひと」単位で発言を管理する Twitter では当然そこを「ひと」単位で切り分ける。もし、そういうのがなにか性に合わない、というならば、書く内容にモデレーションをかけなくてはいけない。


要するに何が言いたいのかというと!
所謂「ボツネタ供養」をしてやんないと、そのうち Twitter に書くべきでないことを Twitter に書いてしまって、いろいろと気まずいことになるんじゃないのかね、という話。本来「ガス抜き」のはずの Twitter に「ガス抜き」が必要になってくるという自己矛盾。*1「それでこそ人間!」なんていう広い心は私には持てないから、自分基準で「これはないな」と思う tweet をしつこくかましてくる人はブロックすることにしているし、自分の tweet が「似非正義」をかざして粘着的な所業をしていると気付いたときにはそれなり落ち込むことにしている。


で、書こうと思ったけど書けなかった「没イート」。
転載? したければ御自由にどうぞ。著作権なにそれ美味しいの。

「お金に触るんじゃありません!誰が触ったか判らないんだから、不潔でしょ!」と叱咤する母親。あの時は気付かなかったけど、汚れてるのはお金じゃなくて、あんたの心だよ。硬貨が不潔ならば、何故、洗わない。その場凌ぎの出鱈目を言って子供に言う事をきかせようとする、それで大丈夫と思って平気で嘘をつく、その結果どういう子どもが育ったか。私はあんたを死ぬまで許さない。

自分にとって害をなすかもしれない食物を忌避する反射的・本能的行為は生物が生き永らえるために長年をかけて獲得してきた、遺伝子に染み付いたレベルの生体機能だ。人間の場合は、これが形骸化し、代償行為として機能する。それが「偏食」。社会的生物である人間の子供。目の前の状況、目の前の事象、目の前の人物から逃げられない、忌避できない、さもなくば生きて行けないと本能が察知している場合、その逃避願望は内向きに昇華される。つまり、親を、学校を、社会を忌む代わりに目の前の食物を忌む。
…要するに、度を越した偏食傾向を持つ人物は、幼少の生育環境になにか致命的な歪みを抱えていたということである。(ただし、それを自分なりに乗り越えて強く普通に生きているということでもある。)

「ラーメンを食べると鼻水が出る現象」の理由について「熱いから」とか「塩分が」とか「ダシが」とか言っている人たちは、乾麺(インスタントラーメン)を未調理の乾燥状態のまま単体で食べてもやっぱり鼻水が出るという事実を知らないのだろう。

理由はそれぞれだが、Twitter には書けない。
…ここならいいのか、というと、ほんとはよくない。

*1:「本来「ガス抜き」」かどうかはそれこそ人によりけりなわけだが(そして私には該当するけども少数派かもしれないが)、予想としては、他のどのような使い方・位置づけをしていたとしても Twitter はいずれ自己矛盾する、と思っている。