感傷共有装置としての Twitter

人が死んだと聞いて気持ちの動かない人はいない。(「ホモが嫌いな女子なんていません!」的な*1コンテクストで)


Twitter をベースキャンプにしてネットを徘徊していると、従来タイプの「定期巡回コース」では入ってこないような情報がポン!と入ってくることがある。この、件の映画監督の逝去ニュースも、最初は「誤報じゃないか」とか「ソースも出さずに tweet とな」「情報源:Twitter は流石にねーよw」みたいな段階から情報がバンバン入ってきていた。たしか、朝のニュースで報じられる 丸2日前ぐらい(つまり、亡くなった当日その日)から。
しかし、残念だ、残念だ、というネット上の論調を再三目にしながら、私はなんとなく白けていた。
全然知らないんですけどそのひと。
…いや、全然は言いすぎ。でも、「千年女優」は華麗にスルーした記憶があって、その後の評価らしい評価も聞いたことがない。「パプリカ」も、タイトルだけなら耳にしたことがあったようなあえかな記憶があるが、私の観測圏内ではその後の評価を聞いたことがない。
訂正。やっぱり、全然知らない。


要するに私にとっては、日本人のおっさん(でかい)がひとり、50を待たずして癌で亡くなった、そういうニュースに過ぎないのであり、一定の弔意を示す以上のものではない。ネット上に飛び交う「残念」感を私は理解できないし、今からそれを理解しても遅いし、各人の発する「残念」がその人にとってどの程度の真実であるのか推し量ることもできない。
なんだかんだ言いつつ共有できないものは、やっぱりどうあっても共有できないのである。




あれか。ディスコンになった製品の保守部品っていきなり単価が 3倍になったりするんだが、そういうのみたいな話か。(※ ちがいます。)