相変わらず Twitter に張り付いている。

たぶん私なりのストレス解消索なんだろうとは思う。非生産的であるという自覚はある。

駐在所のお巡りさん、最後まで住民守った…


 宮城県警は25日、東日本巨大地震で県警の警察官10人が死亡し、4人が行方不明になっていると発表した。
 その多くは交番や駐在所など最前線での任務に就いており、住民に避難を呼びかけている最中などに津波に襲われた。
 住民たちは「最後まで私たちを守ってくれた」と悼んだ。
 「逃げて下さい」。気仙沼署大谷駐在所の巡査部長、千田(ちだ)浩二さん(30)は地震直後にパトカーで出動した。大声を張り上げて避難誘導する姿が、住民たちに目撃されている。

 千田さんは昨年4月、駐在所に配属。気さくな性格で、すぐに地元に溶け込んだ。
 近くの岩下勝重さん(66)は「誰とでも仲良くなり、長年住んでいるようだった」と振り返る。昨年7月の地区の沖釣り大会で、カレイなどの釣り方を教えた岩下さんに「釣り道具一式を買いました」と報告、一緒に釣りに行く約束をしていた。
 昨秋の祭りでは、交通整理をしていた千田さんは、みこしを担いで海に入る男たちと一緒に海に飛び込んだ。前夜祭では青年部の演劇に出演し、酒を酌み交わした。
 千田さんは地震があった11日、妻(30)、長女(4)、長男(3)を安全な場所に避難させるとすぐに任務に戻った。消防団員の中沢誠太郎さん(40)は「無理はせず、すぐに逃げた方がいい」と声をかけ、千田さんはうなずいた。
 千田さんは同日夕、小川近くの土手で遺体で見つかった。顔に付いていた泥を、中沢さんはぬぐった。「あの時、無理にでも引き留めておけばよかった。彼は最後まで自分たちを守ってくれた」と話した。(長尾尚実、山下真範)
(2011年3月25日21時30分 読売新聞)

東日本大震災:響き続けた半鐘 消防団、最後まで 11人死亡、不明−−大槌 /岩手


 命をかけて町民を守ろうとした消防団員がいた。東日本大震災は、被災した各地に無数の悲劇をもたらした。【鈴木一生、山本将克】
 東日本大震災で1000人を超える死者・行方不明者を出した大槌町で、大槌町消防団第2分団(越田弘分団長、28人)の団員たちは、防潮堤の門扉を閉じ、住民を避難させようと最後まで海辺にとどまった。任務を果たした結果、4人が死亡し、7人が行方不明。その中の一人、越田冨士夫さん(57)は団の象徴である「半鐘」を鳴らし続け、津波にのみ込まれた。
 海岸に近い大槌町の安渡・赤浜地区。第2分団は地震が起きると真っ先に門扉を閉じる決まりになっていた。11日も団員たちは一斉に防潮堤へ向かった。
 「おみゃーは屯所でサイレン鳴らせ」。14カ所ある門扉の1カ所を閉め終わったところで、団員の飛内邦男さん(55)は越田さんからそう指示された。
 津波が迫っていた。飛内さんはサイレンを鳴らすため近くの分団屯所へ車で向かった。スイッチは1階。ボタンを押した。鳴らない。地震で町全域が停電し装置が作動しなかった。
 間もなくして越田さんが屯所にやってきた。状況を報告すると越田さんは「よし」と一声。屯所の屋上に上がり叫んだ。「早ぐ行げ。みんなを避難させろ」。その時、飛内さんは、越田さんが普段は火の見やぐらから外してある半鐘を手にしているのを見た。これが最後の姿だった。
 「カン、カン、カン」。大災害時にだけ使用が許可されている特別な鐘。その乾いた音は遠くまで響いた。当時、数百メートル離れた高台に避難していた元分団長、東梅武保さん(72)は「海の様子が見えていたんではないか。何とも寂しい音だった。今も耳から離れね」。
 第1波が到達したのは午後3時20分ごろ。高さ約5メートルの堤防を軽々と乗り越えた黒い波は、渦をまきながら集落をのみ込んだ。同じころ、屯所の近くでは団員10人前後が高齢者の避難を手伝っていた。住民や団員に警報を出し続けた半鐘の音は、津波が屯所に達するまで鳴っていた。
 津波が引くと、屯所は建物の基礎部分だけを残し消えていた。変形した屯所のやぐらが、がれきの中から見つかったのは10日後のことだ。越田さんと半鐘の行方は、今も分かっていない。
毎日新聞 2011年3月24日 地方版


深い意味は無い。
半年後、ふと、こうした記事を振り返りたくなるような気がした。(生きていれば。)でもそのときにはこうした「新聞記事」はネットから消えている。「あとで読む」ブクマは万能ではない。…アタリマエのことだが。