読んだ読んだ。

なんだよー。もやしもんも CAPTAINありすも載ってないじゃんかよー。


あたりまえです。それはイブニング。こっちはアフタヌーン。でも届いたのは今日のイブニング。(どうでもよさげ。)  しかもイブニング最新号のほうにももやしもんと CAPTAINありすは載ってない。両方とも休載。よしんば載ってても買わない。ドラゴンなんとかの作者が連載をしてて、その絵柄があまりに嫌いだから。というか、下手だよね。絵として。ありえないよね。見るだけでむかむかしてくるよね、あの下手さには。


んなことはどうでもいいのです。ともかく、庄司創さんの初掲載作品「辺獄にて」をざっと通読。内容は 1 path で大体把握できたつもり。
…ちっ、満更知らない仲でもないんだから(なのか?)なんかけちのひとつやふたつでもつけてやろうかと思ってた(そうやって嫌われてゆく)のに、破綻してない。内容は適度にエロくて、登場人物は適度に俗物。作者の好みなのだろう、無駄に辛酸を舐めながらも無闇に理性的。そして最後には留保つきながら適度に(以下ネタばれ防止の目的で略)。 少なくとも、TV 放送版最終回の「イヒ」よりはおもしろかった。…って較べるな。あの最終回と較べれば大概は好印象だ。
強いて言うならば、これは飽くまで好みの問題として、だが、庄司さんの画風は、嫌いなほうでこそないが、好きではない。好みの話なんでしょうがないしどうしようもないが、そこは前提として明らかにしていたほうがいいと思った。あと、基本的にトーキングドラマの形式がベースで、ええと、ディアローグっていうんだったっけかな、違ったかな、要はそれってつまり演劇の 2人芝居ってことなんだけど、好きじゃないんだよなぁ、舞台演劇とその方法論。どうしても好きになれない。
なんだ結局毒吐いてるんじゃんかよ。しかも毒というか愚痴だ。
反面、事態を揺るがすエピソードの置き方とかものすごい絶妙。ああ結局人間てそうなるか、的な追い込み方が非常にロジカルでいい。心配の種、というか、その場に身を置いた人間がそこでまず何が深刻であると考えるか、みたいな部分が嘘っぽくなくて凄すぎる。私のような、古い言葉で言うところのサイコパス的分裂気質な人間からすると、物事を系統立てて整理し脳内に格納してゆくその手際は見事としか言いようがない。これは登場人物についてでもあり、同時に作者も。


講談社の中の人、焦ってるだろうなぁ、とか、思う。何者なんですかと。ってうわあぁ何書いてるか本気でわからなくなってきた。最近脳味噌の「そういう部分」封印してるんで、無理にこじ開けると「脳味噌の「そういう部分」」がアレルギー性の何かに近い何かで炎症起こしそう。(← それは私が自ら「読者たる資格無し」と言っているようなもんだと思うが。)


でもって以下は感想でも批評でもなんでもない、どさくさに紛れての自分語り(うざい)



久々に「そういう意味では(どういう意味かはよくわからないけども)、人生を真剣に生きている人に申し訳ないなぁ、今の自分。」とか、そういうことを考えましたよ。ええ。考えるだけですけど。
できることをやらないのは、それをやりたくてもできなかった人に失礼だ、みたいな言及をどこかで聞いたことがある。いや、あるような気がするだけで、その節っぷり自体はごくありふれた類いのものだ。実際に聞いたか、というか、私が誰かに言われたのかどうか、それは最早、定かではない。でもそんなことはどうでもいい。
私が思っているのは、できる可能性があるのにできないのと、できる可能性が無いからできないのとに、そんな差があるわけではない、ということ。
知り合いの歌手は、過換気症候群とその発作の恐怖を死にものぐるいで克服し、愛犬の死と、親の怪我と、家の手抜き工事に対する訴訟に耐え、破裂寸前の虫垂炎を死のリミットの数時間前まで我慢し、ネットに飛び交うグロ画像も裸足で逃げ出すほどの状態にまでなった喉(ほら、とか言ってファイバーカメラ写真見せんな。私はそういう血とかグロとかには高耐性だけど、だからって別に進んで見たかぁないわ。)をさらに酷使して鍛えつつ騙し騙し使い、そうして、今でも現役で歌い続けている。勿論彼女は「楽器として」優れた基本スペックを持って生まれたわけだが、それぐらいでプロとして食っていけるほどあちらのプロの世界は甘くはない。うまいだけではどうにもならないものがある。彼女はまさしく命を削って、心を削って、ときにおかしなことを言うまでになりながら*1、戦っていた。それはもうできるからとかできないからとか、そういうものをとっくに超えていた。そんな彼女が「歌手になろう」と本気で志したきっかけのひとつが、どうやら私の「声」だったらしい。残念ながら「歌声」ではない。渋谷駅の喧騒の中、私が友人と馬鹿話をしているその喋り声だけが、階段の向こうから聴こえたのだ、と、あとで聞いた。
私が歌うことを本気で嫌になり、部活も、私生活で歌を歌うこともやめた高3 の夏、私の心と身を案じてくれた先輩もいたし、心からの「ばか!」という語を投げてくれた同期もいたし、変わらず接してくれた後輩もいたが、私が喉と心を閉ざしカットアウトした当時を思い出し、当時も流したのかもしれないとめどない涙を 4年も経ってなお滔々と流したのは、彼女だけだった。
でも、私は歌うことをやめた。私自身は、できる可能性があることをやり尽くしたとは言い難い。でも、私の持っていた何かが、世に珠玉の歌声を紡ぎ出すあの喉を生むきっかけの、ほんの 0.1% にでもなっていたのだとしたら、私の「歌う人生」はもう高1 の冬に支払い尽くされていたのかもしれない。
それもひとつの完結した人生。あとは惰生。
…そんなこともふと考えてみたり。 振り返るのって、簡単だけど、周りからしてみればうざいよね。でも、うざくない生き方ほど、空虚なものも無いかもしれないとも思う。
思ったぐらいで何かがどうにかなるほど甘いものでもないけど。


(こんな書いて大丈夫か。…たぶん大丈夫。彼女はネット検索とかできる人じゃないし。事実は若干ぼかしてるし。(でも彼女の旦那さんが「どういうひと」なのか全く知らないんだよな。)


ついでにいろいろ考えていたら、私はやっぱり母親に虐待されていたんだなあ、ということがより鮮明になってきた。ああもうそんなの今更。それに私はそのおぞましい記憶のほとんどを封印してしまっていてもう自分では開けられないし、母親は自分のしたことをほとんど覚えていない。そして、あと 20年か 30年もすれば 概ね確実に彼女は「それ」とともに地の下へと沈み行き、二度と復元できなくなる。



…とまあ、こんな有様で、ちょっと考え始めただけで意味不明針飛び永久循環ループに陥るわけで、そういうのがもう嫌だから普段はできるだけ考えないようにしているのだが、逃げずに考え、考え、考えている人はいるわけで、そういう人がいるという事実とそういう人たちが考えてきた痕跡があるという現実にまで目を背けてはいけないよな、自分、とか思ったり、ってなんでここまで卑屈になる必要があるんだ。(← いろいろと全うしてないからです。やっぱり、怠惰は罪です。で、以下またしてもループ)


もういい加減 開放されたい、楽になりたい、という思いは無きにしもあらず。なにかの業だとかそういうのだというのなら、尚のこと。

*1:あるとき突然「私、70kgまで太ることにした!」というのでびっくりしてよくよく聞いてみれば、「20歳台のうちに経験した体重よりその後増えると、心臓に負荷がかかる。だから今のうちに太る」というのである。…って、それはそういう意味と違うから。