逆に「なんでもない日」なんてネェよ

birthday も厳密には「生まれたと便宜上登録された日」だから、所詮はアレだ。イベント開催の必要上「割とどうでもいい日」のうちのとある 1日を「どうでもよくない日」に半ば強引に仕立て上げているだけだ。
現代社会において「ある人間の生まれた日」として概ね全員の合意を得ることが可能な「分娩年月日」はほぼ 100% 誤差なく把握されているが、実際問題としてこれが正確である必然性はあんまり無い。そうなるといままで birthday であると固く固く信じてきた暦上の日付が実は生命体の定義上割とどうでもいいものだったりもするので、要するに birthday と unbirthday の境界なんて実に曖昧なものだ。
自分だけならそれでもまだ「自分の誕生とはまずもって、てんで関係ない日付」はかなりありうるが、人間は社会的生物である以上、「祝うか、祝わないか」という観点で言えばその birthday が自分か、他人か、というのは最早どうでもよいことであって、そうなると「実質的 unbirthday 空間」(≒ birthday 空間)とでも呼ぶべきものは限りなく全体集合に近づいてゆく。


って、何が言いたかったんだっけ。
…ああ、今日もなんかの日だった気がする、けどわからない、って話だった。因みに今日はハッカーの日らしいよ。


どうでもいいが、ルイス・キャロルは相当な屁理屈好きだったらしい、とどっかで読んだことがある気がする。とかなんとか言っている私はというと肝心のルイス・キャロルを実は読んだことがない。「小うるさい理屈」という点では双璧をなすんじゃないかというサン・テグジュペリも実は読んだことがない。


ルイス・キャロル読んだことない程度では人間死にゃあしない。勿論、とある分野では「死ねばいいのに」ぐらいは言われる可能性は充分にあるけども。